第81話    「先人たちの知恵」   平成17年10月23日  

昔から庄内磯では、春磯では黒鯛の釣りは行われていなかった。明治、大正に入ってもクラブチームに所属していた釣師たちの間でもその伝統が曲がりなりにも大方守られて来た。庄内の春の磯釣りで黒鯛を釣るということは恥とされたという風習があり、極く最近までそれが守られて来た事が、庄内の黒鯛の激減を多少なりとも守られて来たのである。

庄内のクロダイ釣は三つの形態がある。
オーソドックスな黒鯛(黄鯛=尺前後から上)を狙う釣。それに軟らかな竿で引きを楽しむ二才釣(主に二年子、三年子を狙う釣)と秋の風物詩クロコ釣り(メジナの幼魚)と一緒に行われるシノコダイ釣(黒鯛の幼魚)がある。黒鯛釣りを初めとしたこの釣りは初秋から晩秋にかけて盛んに行われた。釣竿も各々の釣り方にあわせ黒鯛竿(5.4~6.3m前後)、二才竿(3.6~4.5m前後)、シノコダイ竿(1.8~3.0m前後)などが作られた。

黒鯛を釣る釣りは主に時化た時の後が良いとされたが、いつでも海が荒れているとは限らない。そこで静かな海でも釣れるような様々な工夫がなされ、庄内独特の完全フカセ釣法が生まれた。静凪の時にも僅かに岩から出るハキ(潮の払い出し)を見つけ、静かにコマセを入れ竿の長さプラス3〜4ヒロの馬鹿をとり、鉤のみと云うシンプルな仕掛けを其のハキに同調させると云うものである。名人クラスともなれば風の強い日でもやたら馬鹿の長い仕掛けを思うところに投げ入れる事が出来たと云われている。晩秋の渡りと云われる黒鯛が集団で移動する時期には黄鯛(30cm前後)の数釣が楽しめた。二才釣りは、軟らかな竿で数釣りと引きを楽しむ釣りである。シノコダイ釣りはクロコ釣りと共に小物釣りの代表で庄内の秋の風物詩となっており、寉岡では家族総出の釣、町内会の磯釣り大会で秋の磯に出掛け芋煮を食べながら釣を楽しむという釣りがある。この釣りでは大量に釣って其の日のうちに焼いた後、天日で乾かし保存する。この釣りは幕末の下級武士には無くてはならぬ釣りで、正月を迎えるに為の重要な釣であった。冬の重要なたんぱく質の保存食のひとつとなり、更に余分なものは現金に換えられた。上級武士の遊魚と下級武士たちの生活の為の釣が平行して行われていた事を見逃してはならない。

寉岡から酒田までやって来る7月頃のお年寄りの家では、まだ手のひら大と小さな二才を釣りに来る。長年の習慣でソーメンの出汁(ダシ)は、この小さな二歳から取ったもので無ければならないと云う。

これらは産卵期の黒鯛を釣らなかったので、釣り人が増加して来たにも関わらず曲がりなりにも極最近まで続いて来たと云える。県外から押し寄せてきた春の黒鯛釣が盛んに行われるようになり、其の生態系のバランスが壊されるに至って黒鯛の数は激減している。東北の黒鯛は冬の寒さの故、 南国の黒鯛より成長が極めて遅い特徴がある。其処へ持って来て春の釣り人の増加は、黒鯛の減少に致命的なものがある。

今更先人たちが、腹ボテの大して暴れもせず比較的簡単に釣れる春の黒鯛を釣らないで繁殖に備えていた伝統が簡単に破られてしまった。しかし、今更盛んになったこの釣を止めろと云っても止められるものではない。釣に来た釣り人達全員が、何らかの形で均等に金銭の負担を行いし増殖の為の方策を採るしかない。増やして採ると云う先人の知恵を破壊してしまったのは、他ならぬ釣り人自身なのだから・・・・。